ロシアの懲役徒刑地とされたサハリン

ロシアの懲役徒刑地とされたサハリン

当展示は、1869年~1906年におけるサハリンの歴史を紹介しています。1869年の皇帝指令により、サハリン島は流刑地となり、ロシアの最も暗い所の一箇所となりました。

プラズマディスプレイには、懲役囚らがサハリンまで護送されていた二つのルート-シベリア経由での陸上ルート及びオデッサ港からスエズ運河とインド洋の経由での海上ルートが示されています。

展示には、懲役囚らが乗る蒸気船「ニジニ・ノヴゴロド」の模型と船上の懲役囚らの写真があります。

サハリンの植民地化は、約40年間続いていました。 流刑地の行政機関は囚人らも、数少ない自由な人々もを動かす無制限な力を持っていました。

サハリンの最大刑務所の一つだったアレクサンドロフサカヤ刑務所の本物の手枷・足枷、独房の錠前・鍵は、その時代の象徴です。石炭運搬用の橇とつるはしは、サハリン囚人らの炭鉱労働を紹介しています。

新生児の粗末麻布のルバシカも展示されています。これは、囚人らの子供らの初服装でした。刑務所の病院で支給されました。

それなのに、当時こそ、サハリン州の現代経済の基礎が築かれました。流刑時代は、サハリンの基本産業部門である石炭産業、石油産業、漁業、木材産業と農業の形成における大事な段階でした。当展示には、19世紀終わりごろにおける天然資源調査や最初企業の設立に関する資料及び日用品があります。

19世紀と20世紀の狭間の時期の、島の住民の生活用具全般-仕事の道具、家事の道具、住宅の調度品-が展示されています。

サハリンは、ロシアで一番大きい刑事流刑地ながら、政治的な流刑地でもありました。ここで、最も意義のあるロシアの政党と組織(「プロレタリアート」、「人民の意志」)の党員:ユゼフ・ピイスツキ、L.Y.シュテルンベルク、L.A.ヴォルケンシュテイン、I.P.ユワチョフ、B.P.エリンスキーなどが刑期を勤めました。彼らは、学校、図書館、病院、修理所、行政機関の事務局で働きながら、苦しんでいる囚人らとその家族に実質的な援助をすることで、社会の精神的・文化的な生活に大きい貢献をしました。

1890年、有名なロシア作家A.P.チェホフがサハリンを訪れました。A.P.チェホフがロシア全国内を旅して、サハリンに3ヶ月滞在し、調査を行った結果、「シベリアから」と「サハリン島」という本が出版され、この本はロシアの読者たちに感動させました。

大反響があったので、政府は懲役囚・流刑囚に関する立法を改革せざるを得ませんでした。1906年4月10日にサハリン流刑撤廃法律が出されました。1908年、サハリンは自由入植地だと宣言されました。

ドゥエ砦の中央通り

アレクサンドロフスキー港の埠頭

ヴォエヴォーヅスカヤ刑務所

石炭鉱山会社「サハリン」の事務所

会社「サハリン」の埠頭と鉱山

会社「サハリン」の鉱山埠頭

ドゥエ砦の聖ニコライ教会。1856年に活動開始。

会社「サハリン」の鉱山の石炭倉庫

会社「サハリン」の炭鉱における石炭採掘

ジョンキエール岬にある灯台。1886年建設。

”黄金の手”と呼ばれたソニカ。有名な女泥棒

手押し車に鎖で縛り付けられた囚人たちがヴォエヴォーヅスカヤ刑務所の中庭にいる

1890年5月、座礁した蒸気船「アトラス」

アレクサンドロフスキー砦のニコラエフスカヤ通り

サハリン島の総督の家

アレクサンドロフスキー砦の郵便・電報局

アレクサンドロフスキー砦の管区警察署と刑務所の事務局

アレクサンドロフスキー砦のドゥイカ川にかかった歩道橋

ルィーコフスコエ村の中央部

ルィーコフスコエ村におけるカザン生神女教会。1888年に活動開始。

コルサコフスキー砦の刑務所

コルサコフスキー砦の通り

コルサコフスキー砦

コルサコフスキー砦の管区警察署

ツレチヤ・パーヂ入植地

マロエ・タコエ村

ベレズニャキ村

ヴラディーミロフカ村

リストヴェニチノエ村

 

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